hamu blog

ほんわか20代主婦のブログです

ゆるーい日常の日記2

映画を見た話 5月3日

 今日は夫と市内に行き、映画を見た。映画の中で新婚の夫婦が出てきた。その夫婦が交通事故にあい、妻が助からない状態になっていた。新婚という自分と同じ立ち位置だと感情移入しやすい。急に感情移入して、大泣きした。その映画の後はいつもより夫に優しくなれた。この人が横に居てくれること、健康にいてくれることは当たり前ではないのだ。ありがとう。

 

【注意】以下重く長い話なのでご注意ください

もしよければ、ゆるーい日常のことは他の日記をご覧ください

 

 

 

中間の人と適応障害

 突然だが私には中間の人がいないと感じる。中間の人というのは私が勝手につけた言葉だ。人を3つに分ける。1つは、自分のことを絶対に嫌わない内側の人。家族や配偶者。2つは、外側の人。自分とは赤の他人の人、もしくは世間話しかしない人。中間の人とはどちらにも属さない人だ。友達、会社の人、同期。

 私はこの中間の人が非常に苦手だ。気を遣わなくてはならない。自分のことをどこまで話せばいいのか。相手は話したいのか聞きたいのか。距離感が非常に難しい。気を遣いすぎると仲良くしようとしていない。しかし近すぎるとプライベートに踏み込みすぎて気を遣えていないと言われる。人によっても距離感の感じ方が異なる。中間の人と一緒に居るときに、内側の人と一緒に居たいと感じてしまう。そんなことを考える自分に罪悪感を抱く。中間の人がいないと言ったが、中間の人をつくらないようにしていると言う方が正しい。中間の人を外側に移動させている。内側の人とだけいる方が楽だから。

 社会人1年目の時に適応障害になった。今になって思うとそれは中間の人との付き合いをしていなかったからではないか。高校、大学と勉強をしていればよかった。勉強ができる人が正義だった。人付き合いが苦手な少数の友達と講義を受けていればよかった。勉強を頑張っていれば、すごいと頑張っていると思ってもらえる。自分も人より努力ができる本気で思っていた。勉強さえしていれば自分の高いプライドを維持できる。優越感を餌に勉強をする。しかしながら、社会は違った。コツコツ勉強をするより、コミュニケーションが求められる。上司と同期とうまく付き合わなければならない。その付き合い方を私は学んでこなかった。正社員として入ったのに非正規の同期のほうが賢く、コミュニケーションもできた。私が学生時代勉強ができたのは地頭が良いわけでなく、時間をかけて教科書と向き合ったからだったのだ。現場で見て学ぶ能力は非正規の同期のほうがよっぽどあった。自分のプライドが崩れていくのが見えた。さらに、社会に入るまで社会の理不尽さにも気づいていなかった。社会と関わっていなかったからだ。直属の上司が上の人に対する顔、非正規に対する顔、正規の部下に対する顔があからさまに違った。好きな人、嫌いな人でこんなに態度が違うのか。怒り方が違うのか。怖くなった。笑っているときに本当は何を考えているのだろう。なんでこんなに態度が違うのか。周りは気づいているのか。作り笑顔が気持ち悪い。いつの間にか話しているときに胃が痛くなった。怖くて顔を合わせると冷汗が出るようになった。会社に行く前に涙が止まらなくなった。帰ってからずっと泣く日々が続いた。部屋から道路を見ながら自分を轢いて殺してほしいと。夜道を歩きながら誰か刺してほしいと。寝る前に朝になったら死んでないかなと願った。ぼろぼろと自分が壊れていった。

 人は中間の人との関りの中で社会の理不尽さ、人との距離感を学ぶのだと思う。勉強以外の能力を人との関りの中で感じるのだ。人によって態度が変わる人がいるのも当たり前の話だ。1年目で知れてよかった。自分の無力さ、不甲斐なさ、不平等なことは当たり前にあること。プライドを壊してくれてよかった。嫌だった上司も多分その人の歩んできた道がある。態度を変えないとやっていけない理由がある。今はそう感じる。

 もし苦しい人、壊れている人が見ていたら。月並みの言葉だが、逃げることも大事だと。壊れるぐらいなら逃げてしまえ。壊れるのにかかる時間の最低2倍治すのには時間がかかる。しかも、治るかどうか分からない。だから、お願いだから、壊れるぐらいなら逃げてほしい。と感じる。

 今は適応障害から治った。治って思ったのは人の温かさ、やさしさ、思いやりは、自分が元気でないと感じれないのだと。自分が元気でないと優しくできないのだと。自分の中で関わることがしんどった中間の人が本気で心配してくれた人もいた。そんな人にごめんねと。ありがとうと感じる。いつか友達や同期と普通に楽しく関われるようになりたい。